RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

宗教的エゴイズムと結婚の話

今日は年間第6主日でした。

 

今日の中村神父様のお説教は、

「律法を廃止ではなく完成させるとは

どういうことでしょうか。

ファリサイ派とイエス様の違いを

考えてみるといいと思います。

ファリサイ派は律法を熟知し、

自らもそれを守っていたようですが、

律法を守れない人を救いに与れない人だと

断罪する所があったようです。

 

エス様は、そんな人を救う方です。

 

私たちは、自分がわかっていると、

それを自分の中だけのものにしてしまって、

わかってない人を見下してしまうかもしれません。

 

今日の福音は厳しく聞こえるかもしれませんが、

つい私達も人に厳しい目を向けてしまうことが

あると思うので、優しい気持ちを向けられるよう、

恵みを願っていきましょう。」

という内容でした。

微妙に違う部分もあるかもしれませんが、

大きな意味としては外れていないです。

 

今日の福音を聞いて思ったのは、

教会の中にそういうことがあるかもしれない、と

日ごろから心配していたことです。

 

わたし個人の感想ですが、

信者でない人を未信者と呼ぶのは、傲慢である。

少なくとも大きく誤解される言葉だと思っています。

 

いつかは救いに与るように、という善意かもしれませんが、

現時点でキリスト教に興味がない人にとっては、

不快に感じるのでは、と思うのです。

 

1969年のカトリック福岡教区報で、

洗礼を受けないと地獄に落ちるのなら、

地獄行きでもいいから洗礼は一生受けない、

と言った仙台の女性の話を取り上げて、

「宗教的エゴイズム」という言葉を使って

問題に言及しています。

 

仙台の女性の話を聞いて、

みんな失意と悲しみを感じたと思います。

クリスチャンは当然、洗礼は素晴らしいことと

思っていますから、それを決別するようなことを聞けば

私だって悲しみの感情を感じます。

 

そこで当時の人は、自分達に問題はなかったか、

信者でない人の感情にそぐわないものを

無理に与えてしまったのではないか、と

思ったのでしょう。「エゴイズム」という言葉には

自己批判の気持ちが現れています。

 

ほかの話をすれば、本当の話かわかりませんが、

私のよく知っている教会で、

若い男性が半ズボンを履いてミサに来たら、

そんな格好ではダメだ、と揉め事になって、

かけつけた主任司祭から、次からそんな服装では

ミサに参加はさせられない、と言われたというのです。

 

そんな事を言われて、とてもミサに集中できなかった、

建物は立派でも発想は保守的でダメだ、と書いてありました。

 

この書き込みが嘘であってほしいのですが、

もしかしたら本当かもしれないと思っています。

ちょっと保守的な雰囲気は確かにありますから…。

 

フォーマルな格好のほうがより望ましいのは

間違いありませんが、短パンで来たからと

非難したり、ましてミサに与れないというのは

私は常軌を逸していると思います。

 

本当だったらならば、書き込みをした男性は

確かにミサが欲しかったし、神様が欲しかったのです。

その気持ちをスポイルしてしまったのは

非常に罪深く、嘆き悲しむべきことです。

 

あまりのことに、本当だと思いたくない私がいますが、

いずれにせよ、教会はみんなのものなのです。

短パンスタイルの方のものでもあり、

世俗的な雰囲気の強い人のものでももちろんあります。

より宗教的な生活を送っている人が、

自己満足で人を遠ざけてしまうことは

あるべからざることだと本当に思います。

まさにエゴイズムそのものです。

 

さらに、ある観光名所になっている聖堂の

小教区の信徒さんと一時期やりとりしていたことが

ありましたが、非常に衝撃を受けた話があります。

 

そのパリッシュでは、求道者や新しい信徒に対して

ハリーポッターを読んではいけない、

読むのなら洗礼は受けないほうがいい、とか、

プロテスタントの教会に行ったら告解しないと

いけないとか、言っているというのです。

 

そういう態度は独善的だけでなく、

そもそも間違った方向に行っています。

にも関わらず、ベテランの信徒が理不尽に

それを押しつけているという状態があって、

若い人の躓きの石になってしまっている。

 

程度の差こそあれ、あるんじゃないかなぁ、

と思います。私もザビエルカテドラルで、

主の祈りの時に手のひらを上にして

祈ってはいけない、手を広げるのは

司祭の仕草であると言われました。

洗礼を受けて小教区の一員になったのだから、

流儀に従わないと、とベテラン信者さんに

言われたことがあります。

 

納得できなかったのですが、

そうなのかなぁ、と思っていると、

外国の動画で、ほとんどの人がその仕草を

しているのを見て、だまされたと思いました。

 

私の場合は信仰心が強かったので、

それで躓くことは全くなかったのですが、

理不尽かというと理不尽だと思うし、

「小教区のやり方」としてベテランさんが

自分の好みで個人の信仰心に干渉するのは

よろしくないことというのははっきり思います。

 

洗礼を受けてすぐに来なくなる信徒さんが

けっこういますけど、教会の中の人間関係や

無理な奉仕活動が躓きの原因になっては

いないか、私はけっこう気にしています。

 

今日書いたこととは少しベクトルの向きが

違いますが、中村神父様が説教の中で使った

「正義を愛の心で包む」という言葉は、

神父様が祈って導き出した言葉だと思って、

印象に残りました。

 

今日は聖体拝領がよかったです。

COVID19が流行しているので、

手で受けて自分で口の中にホスティアを

入れた、その時から、自分の罪深さと、

その自分に大胆に共におられる神様を

強く感じました。

 

感動していると、それに応えるように、

ご聖体の味が口に広がって、

神様が現存を現してくださいました。

それが2、3回ありました。

 

神様が自分のただ中に共にいてくださって、

その中で思ったのは、

私たちはいつも神さまファースト、

いつもお手本にしているのは神さまであって、

お手本がファッションモデルであったり、

芸能人であったりすることもあるが、

 

何かあったら戻るのはいつも神様で、

そこさえ間違わなければ、

普段ファッションモデルや芸能人を

お手本にしていても間違いない、

と思いました。

 

ミサの後で聖歌隊を見に行ったり、

イタリアの人と言葉を交わして、

そんなちょっとしたことがよかったです。

 

昼間は外泊中らしく外を自転車で走って、

帰ってから、亡くなった

野球の野村克也さんの追悼番組を見ました。

 

野村さんの奥様に対する姿勢には

感動を覚えて、涙さえ流れてきました。

創世記の言葉が自然に胸に浮かんできました。

 

これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。

これをこそ、イシャーと呼ぼう。

まさに、イシュから取られたものだから。

 

野村克也さんはさちよさんのことを、

これこそイシャーと思っていたことは

よくよく伝わってきました。

 

運命の異性と出会って、男女は結婚する。

そこに神秘的な愛の貴さがある訳ですが

私はこれこそ私の骨、私の肉、私のイシャー、

そんなふうに思ったことがありません。

ですが、野村克也さんにとても共感できました。

 

念のために書いておきますが、

LGBTの方は同性が肉であり骨であって、

それでいいのだと思います。

 

さて、野村さんの結婚は不倫から始まっていて、

けしからん、となって然るべきなのですが、

終わってみれば、本物の出会いだと思います。

後から見てそう思うのであって、

当時だったら支持していないと思います。

 

なんか、嘘から出たまことみたいな感じで、

不思議な感情ではありました。