RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

メメントモリ(完成版)

今日は聖ペトロの使徒座の祝日です。

 

私は午後からの外泊でしたので、

ミサには出ていませんが、

去年はパパさまにまつわる報道が

多い年でした。

 

ご高齢にもかかわらず

教会のために身も心も捧げて

ご活動されていらっしゃる

パパさまを覚えて

ご健勝と更なるご活躍をお祈りします。

 

今日のそれでもブログは

いかにも郡山司教様らしい内容でした。

私も賛成です。

 

近年は刑罰を厳しくする傾向にあって、

私も死刑以外はそれでかまわないと思いますが、

言ってもわからない人間を力で懲らしめる、

なにか人間不信が根底にあるかもしれないと

若干気になるところもあって、

力による改心より心による改心を

もっと目指すべきではないかとも思います。

 

2000年くらいに自己責任という言葉を

変な風に使って外国で誘拐された人を

非難したニュースがありましたが、

日本社会が心に訴えなくなってきて

ちょっと薄ら寒い感じになったのでは

ないでしょうか。

 

今こそ「迷惑」という言葉に

異を唱えたドイツ人ではないですが、

秩序だけでなく心の通う社会に

もう一度すこし回帰してみようかな、と

振り返ってみたほうがいいと思います。

 

さて、昨日の続きを書こうと思いますが、

内容が2つに別れていると、

後から読む人が読みにくいと思うので、

昨日書いたことも再掲しようと思います。

 

 

何度も書いていますが、

私は学校がカトリックで、

今もカトリックの信徒ですが、

最初に通った教会は

日本福音ルーテル鹿児島教会です。

 

それで今もホームページを見ています。

 

毎日更新されるホームページに、

グレースハンセン(ハルセン?)という

人のことが書いてありました。

 

どんな人だろうと思って調べてみると、

同じ人なのかはわかりませんが、

 

「人生が終わってしまうことを

 恐れてはなりません。

 人生がいつまでたっても始まらない

 ことが恐いのです。       」

 

という名言がたくさん出てきました。

 

ハッとしました。

確かに私の人生は始まってないな、って。

 

私は洗礼を受けたことを喜んでいまして、

一時期、教区司祭になることを

けっこうまじめに考えていましたが、

だんだんその気持ちが薄らいできました。

 

考えるのは、お世話になった

鹿児島司教区の神父様たちのことや、

前にも書いた、若くして観想修道院

シスターになった人のことです。

 

本当にそういう生き方がいいのだろうか、

という気持ちがあって、言い換えれば、

元気なうちはそれでいいかもしれないが、

死ぬ時に人生を後悔しないか、

という思いがあると思います。

 

あと、私は神はいると

心の深遠から信じていますが、

根強い不可知論への傾きがあると思います。

 

私は元々、熱心な浄土教の信者で、

同時に神は唯一の存在だと思っていましたが、

神はあまりに偉大すぎて

その存在を人間ごときに認識することは

不可能であるとも信じていました。

 

浄土教阿弥陀仏による浄土への救済を

信じる宗教ですが、阿弥陀如来

神でもなければ全能でもないので、

不可知論と根本的に矛盾することは

なかったのです。

 

キリスト教を信じるにあたって、

障害となったのは、

拭えない阿弥陀如来への信仰と感謝の心を

どう考えるべきか、ということと、

 

自己の本質的不可知論への傾き、

すなわち偉大な全能唯一の神を

聖書の主とイエスと提議していいのか、

もしかして神への冒涜ではないか、という

深い部分からくる疑問でした。

 

私はキリスト教を信じるにあたって、

神は三位一体の主であることを受け入れ、

実際に神の素晴らしい愛を

感じて感動を覚えていた訳ですが、

心の奥底にある不可知論的思想が

完全に払拭されか、といえば、

まだ奥底に残っている気もします。

 

それが、私の感じる

「後悔しないだろうか」

という感情に関係があると思います。

 

そういえば、先日、散歩のために

病院から外出したのですが、

大名でお店の入口の所に

メッセージが書いてありました。

 

LIFE IS SHORT.

LOVE YOURSELF MORE.

 

私はその言葉を見て、そうだ!

という気持ちになったことを覚えています。

 

宗教的な意味で幸せな人生を歩むより、

世俗的な意味で幸せな人生を歩んだほうが

「バランスがとれている」

ひいては「人生後悔しない」と思ったのです。

 

でも今となっては、

世俗的な生き方を選んで

神様から背を向けたことで

後悔する可能性もまたあると思いますが。

 

私が感じたことと全く逆の意味で

同じ言葉を使ったものがあります。

それがタイトルのメメントモリです。

 

これもルーテル鹿児島教会のホームページに

立野牧師が書いていたので知ったことです。

memento moriの直訳は、死を記憶せよ。

 

人は必ず死ぬのだから、

現世の虚しい享楽に身を委ねず、

神に添った人生を歩むように、

という意味です。

 

もうすぐやってくる灰の水曜日に、

あなたはちりに帰っていくのです。

回心して福音を信じなさい。

と言って頭に灰を塗りますが、

これも同じ意味ですね。

 

メメントモリWikipediaで見ると、

古代の意味は、世俗的な意味で、

人はいずれ死んでしまうのだから、

人生を楽しめ、ということだったようです。

 

今日、ホーリネス教会のそばを通りかかって、

説教題の所に「信仰を生きる生活」だったかな、

そういう意味のタイトルが書いてありました。

 

ホーリネスの人はストイックな信仰を持っていて

信仰と実際の生活の一致を求めるようですが、

カトリックやメインラインプロテスタント

多くの信者は実際の生活はまた違うと

思っていると思います。

 

意地悪い見方をすれば、

私達はキリスト教を骨抜きにしていないか、

エスの公生活の第一声は

「悔い改めよ。神の国は近づいた。」

だったのだが、さてどうなのだろうか、

そんな見方もできる訳ですが、

 

私達は中道を好むというか、

キリスト教的な精神を全く顧みない生活は

虚しいと思っているのも事実だが、

キリスト教的価値観にすべてを預けて

この世を顧みないのもまた怖い、と

そういう意識がだいたい働いていて、

宗教の価値観とこの世の価値観の

バランスをとって生きたがると思います。

 

そうです、信仰者であっても、

この世の命は神様から与えられた

かけがえのない宝物だから、

大事にしたいと思うでしょうね。

あまり思わないという人は

いるんですかね?

 

もしいらっしゃったら、

ぜひコメントをいただきたいのですが!

 

こう思うのは、この世の命と比較した

永遠の命を疑う気持ちに基づくものなのか、

それもゆっくり考えてみようと思います。

 

ところでメメントモリ

もうひとり思い出す方がいます。

ペトロ竹山昭神父様です。

 

竹山神父様は私にとっても恩人で、

葬儀の時に入院していて

残念なことに出席できませんでしたが、

ザビエル教会は2階まで埋まったと聞きました。

 

鹿児島教区報に、

竹山神父様の最期の様子が書かれていて、

永山神父様に対して笑顔を見せたそうです。

 

私は、それを見て本当によかったと思いました。

竹山神父様は本当に真面目に司祭の道を、

あるいはキリスト信者の道を全うされた方で、

あの方の最期にすべてを後悔する思いでなく、

人生を肯定する笑顔があったことは、

本当に嬉しく、また安堵するような話でした。

 

竹山神父様の文章に、

このような言葉が書かれていました。

「よい死に方とはどういう死に方でしょうか?

 よい死に方をするためには、

 よい生き方をするしかありませんね。   」

 

本当にいい言葉だと思います。

 

私は奉献生活でなくても、

皆が自分の仕事に人生の多くを捧げています。

 

聖職だろうが世間の仕事だろうが、

仕事には求められる犠牲があります。

そして、人生を後悔しないものにするためには、

より、良く、生きるしかないのですね。

 

今日は本当に長い文章を書きました。

おかげで、私自身の思いも多少整理されたと思います。

どうすれば「人生が始まって」いくのか、

よりよい人生に向けて考えていきたいです。

 

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