RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

さようなら立野先生

今日は夕方以降、精神的に

ものすごく荒れています。

 

こういう経験はあんまりないですね。

落ちこんだり無気力になったり

することはありますが、

ソワソワイライラすることは

あんまりありません。

 

なんだかちょっと嫌な感じなんですけどね、

今日の日記は楽しんで書きたいと思います。

 

やっぱり今日の出来事といえば、

立野牧師先生が最後の鹿児島だったことです。

 

それで今日も礼拝にお邪魔しましたが、

今日は熊本市中央区のルーテル大江教会、

そして鹿児島の日本基督教団加治屋町教会からも

教派を超えて大勢の方で礼拝堂が埋まりました。

 

ルーテル教会は信徒さんの少ない教会で、

あんなに礼拝で大入りになったのは

初めて見ました。

とても素晴らしいことです。

 

お説教の中で聞いたのは、

立野先生が来られた当初は

一番さびれていた時期で、

礼拝に来ていたのが2人3人、という時期が

しばらく続いていたそうです。

 

立野先生は、なんかあの頃こそ

神様のまなざしが最も

注がれていたような気がする、と

おっしゃっていました。

 

また、ドストエフスキー

「人を愛するとは、神が意図したように

 その人を見ることだ」

という言葉も紹介していました。

 

なんか恋愛になると分かると思うのですが、

見え方が変わるのが不思議ですよね。

昔から、あばたもえくぼと言いますが…。

神の意図が見えた気になりますね。

 

ほかにカトリック司祭の黙想の言葉で

「神から愛されようとして

 自分を変えようとする必要は全くない」

という言葉も紹介されていました。

 

もちろん、回心はあったほうが

望ましいとは思いますが、

こうしないと神の愛は与えられないんだ、とか

神の愛を受けるに値しないとか、

そういうふうに自分に制限をかけていく必要は

ないんだよ、というふうに受け取りました。

 

今日は新しく入れた祭壇、聖卓、説教台の

聖別も行われました。

 

それぞれ、聖書の言葉を言って、

父と、子と、聖霊の御名によって、と

言いながら、祭壇と聖卓には3度灌水して、

説教台には3度指で十字を記しました。

 

なにより素晴らしかったのは、

今日はおばあちゃんの洗礼式がありました。

キリスト者にとっては、このような

かけがえのないお恵みはありません。

 

そんな素晴らしい場面に同席できて、

今日は本当によかったなぁ、と思います。

 

昨日買ったメダイとザビエル教会主聖堂の

ポストカードは、お渡ししました。

もう立野先生には渡しちゃったし、

 

ブルーに変えてもらうんじゃなくて、

赤いハートに金色の十字架のメダイを

大事にしよう、という気分になっています。

 

メダイはチェーンをつける予定なので、

いつかチェーンをつけたら写真を撮りますね。