RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

インプロペリウム

今日は、アメリカ在住のM君などには見てほしいんだけど、
キリスト教浄土教の微妙な違いについて話したいと思います。

私は、元々、浄土教(浄土真宗)でした。
浄土教は、明らかに哲学的な他の仏教と異なり、
景教というキリスト教の異端の一派の影響を
強く受けています。

開祖である親鸞はいいました。
「人間は修行でどうにかなるほど徳のある存在ではない。
 ただ、弥陀の本願に一心に頼む者こそ救いの道がある。
 だから、悪人のほうが善人より救われやすいのだ。」

悪人正機と言われるこの考え方は、
「信仰のみ、恵みのみ」を説いたマルティン=ルターに
非常に近い結論にたどり着いています。

さて、今日は、聖金曜日、Good Fridayです。
日本語では主の受難、受苦日という言い方もします。
ここまで言えばわかるでしょうが、
昨日は最期の晩餐と聖体(プロテスタントでは聖餐)の制定、
今日は、イエスが犯罪人とともに十字架にかけられ、
苦しんだ末に人間としての生涯を終えた日です。
イエズスは筆舌尽くせぬ苦しみを負い、
母マリアは、母として、心を刺し貫かれる悲しみでした。

ある意味で、キリスト教では、今日は最も大切な日です。
神が人となったイエス=キリストのいけにえにより、
すべての人間の罪が神にあがなわれたからです。

キリスト者は、まず、イエスの苦しみを思います。
エスが十字架につけられた12ー15時が、
どんなに長く、心苦しいことか。
この気持ちは信仰がない人には想像できないです。

さて、私は、浄土教、ルーサラン、カトリック
すべてを経験しています。
かなり独特の信仰を持って生きてきました。

グッド=フライデーの考え方は、
カトリックプロテスタントで少し違うようです。
もちろん、プロテスタントといっても千差万別ですが、
全体的傾向として、そうです。

その象徴がインプロペリウム、とがめであります。

ルーテル教会は、最もカトリックに近い
プロテスタントと解釈していますが、
それでもインプロペリウムはありません。
この傾向は、プレスビタリアンなど、
宗教改革が進むにつれ、ますます強くなるようです。

私の感覚では、キリスト教ではイエスの悲しみと、
救いの福音の感謝を表す日です。

プロテスタントは、救いの喜びを強調するようです。
罪人が赦された、神秘的な日として。
神は愛を以て、自ら極悪人と共に十字架にかかりました。
そのイエスのいさおしを称える思いが強いようです。

このあと、イエスの復活を記念するイースター
日曜日に控えていますが、イエスは英雄です。
神は人間を救い、死にうち勝った英雄。
この思いは、プロテスタントに強いようです。

浄土教と比べても、至らぬ者、と罪人、の違いは
ありますが、比較的明るい信仰と言えると思います。

ただ、プロテスタントでも、この罪人、スィナーという
考えに抵抗を持つ人は一定数いるようです。
私たちは、それほど悪い存在なのか、と。

私は、そのように考える必要はないと思います。
人間には確かに悪があり、罪人で、
悔い改めが必要ですが、罪もまた人間の神秘です。
なぜか、神が人間に残されているもので、
それは神がお赦しになったのです。
ですから、特にアメリカのプロテスタントは、
明るい雰囲気が強いように感じます。

カトリックは、少し違います。
カトリックと言いながら、ルーテルの牧師の話をしますが、
人間に罪がなければ、人間は皆、神のロボット。
そんな世の中が面白いですか? と説教されました。
なるほど、それも、原罪の神秘に触れた答えだと思います。
カトリックには、明確な答えがあるように思います。
「誰も神の前で誇ることがないため」です。

それを端的に表したのが、このインプロペリウムだと思います。
人間は赦されたとは言え、罪人のままであり、
常に罪を悔い改めなければ、神の霊性から離れてしまう存在、と
私は考えます。先ほど書いたように、罪人であることを
必要以上に悲観しなくてもいいですが、謙遜に悔い改めることを
忘れれば、サタンの誘惑にはまり、神の御心から離れる。
その結果待ち受けるのは、永遠の死です。
赦されても、それをないがしろにするようでは赦されないよ、
というのが、カトリックの考え方と私は思います。

ですから、神には感謝とともに、畏れが重視されます。

カトリックプロテスタント浄土教の順番で
罪の苦しみの自覚が迫られるようですが、
何度も言うように、必要以上に悲観的にならなくていい、
と思います。神との一致は本来、喜びなのです。
喜びを邪魔する罪を退けるのは、当然だと思います。

ルターは、当時のカトリックの腐敗に激怒して
宗教改革しましたが、同時に罪深さを強く恐れた人でした。
ルターの考えは、なお多くのプロテスタントの中に
影響を及ぼしているようです。
罪はあまりに深く、人間には勝ち目がない。
だから、イエスがいるのだ。
罪も含めてイエスに委ねるのが特徴ですね。

私はカトリックですが、かつてのような喧嘩は不毛です。
プロテスタントの理解はおかしいとは一切言いません。
自分がしっくりくる教えに忠実であることが重要です。
カトリックプロテスタントも関係なく、
エスは讃美され、栄光をお受けになるべき方です。
それを忘れずに、今日のグッドフライデーを、
共に過ごしたい、ただそう思います。