RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

キング牧師と聖アグネス

Facebookを見ていたら

(病院の規則でSNS書きこみ禁止なので読むだけ)

やたらとキング牧師の話題が出てくる。

 

そういえば、記憶の片隅にキング牧師の日という

アメリカの国民の祝日があった、と思って

調べてみたら、1月第3月曜日でした!

 

時差もあって、1日遅れで記事が入ってきたのですね。

知識としてそういう日があると知ってたけれど、

今回はじめて身近なものとして感じられました。

Catholic agencyとか眺めているせいもあるんだろうけど。

 

あらためて、キング牧師という人はすごいですよね。

命を狙う脅迫が現実に相次いでも、

本当に殺されるまで活動をやめなかった。

それは、キング牧師の夢ももちろんあっただろうけど、

運動が勢いづいている中で、

使命を感じていたんじゃないかなぁと思います。

 

 確か、キング牧師の「私は弱くされそうです」という

言葉があったと思って調べてみたら、

私はくじけそうです。でもそんな姿を見せたくありません。

他の人まで弱くなってしまうからです、という内容の

メッセージがあるとわかって、やっぱりと思いました。

 

キング牧師は、さらに内なる声を聴いたと

メッセージしています。

「真理のために立て、見よ、私はあなたとともにいる。

 世の終わりまでともにいる。」

もっと長いんですけど、そんな内容です。

 

キング牧師が聴いたイエスの声は、

特別な人に起こる奇跡じゃなくて、

誰にでも起こり得る、祈りに応える声だと思うんです。

命を狙われる恐怖に苦しんで、無我夢中の中で、

聞こえてきたイエスの真理の声だと思います。

 

キング牧師の人生は悲劇的なものでしたが、

「一粒の麦が落ちて死ねば多くの実を結ぶ」

という聖書の言葉を思い出されます。

この言葉は殉教者のお説教にも使われます。

キング牧師も、直接的なキリスト教迫害ではないですが、

黒人の人権のために、神の御旨を生き抜いたのだと思います。

 

キング牧師のかけがえのない命が犠牲になった、

これは、とてつもなく大きな犠牲ですから、

私などは、それに見合った大きな実を

結ばないといけない、という気になります。

キング牧師のことを忘れないようにすることで、

思いや行いもより良くなるのだろうと思います。

フォーエバー。

 

さて、今日はグレゴリオ聖歌のミサがありました。

マキシム神父様の司式で、

今日は聖アグネスの日でもあったので、

お説教は聖アグネスの話と、第一朗読のサムエル記で

サウルが退けられてダビデが選ばれる場面でした。

 

今は純潔を守らない人が増えているけど、

体は神殿だから、そのつもりで体を大事に守って、

きれいな体と心を神様にお捧げしようという内容でした。

 

私は、落ち着いた心でお話を聴いていましたが、

聖アグネスの逸話が信じられないという気持ちや、

偶像崇拝や売春の話が出てきて、奇跡の中身も

作り話みたいに思えて、引いている自分もいました。

 

前は、引いている自分を見つめることができずに、

アーメンとばかりに、

すべてを受け入れようとしていました。

今は、抵抗を感じている自分に気づき、

その気持ちを否定しないで、

そのままで受け入れるようになりました。

 

どちらがいいのかはなんとも言えないです。

ただ私は、今の自分がダメになったとか、

そういう風には捉えていないです。

自分の中にある「不従順」な気持ちは、

非信者の人、イエスのことも信じられない人、

洗礼を受けたけれど教会に魅力や希望を

見いだせないで離れている人、

いろんな人の気持ちを理解することに

つながると今は思っています。

 

教会は、みんなのためのものだと思います。

みんなというのは、

何でも信じられる人ばかりじゃありません。

マリアが処女のままイエスを身ごもったと聞いて

腹を抱えて笑った、宗教の胡散臭さを見た思いだった、

という人もいました。

こういう人はおそらく洗礼を受けないでしょうが、

そういう人のための教会でもある、

と私は思っています。

 

ですから、信じない人、信じることをやめた人に

謙虚に耳を傾けることから始まる何かがあると思います。

信じている人だけで固まっていても、

また断絶もそこにあると思います。

信じている人として、かつ相手を否定しない生き方を

非信者に対しても、信者に対しても、

分け隔てなくしたいと思うのです。

 

また、自分もまた人ですから、

いろんな気づき、自分の知らない自分もいて、

そういう自分を尊重することは大事だろうと思います。

自分だからどうにでもなる、と思っていたら、

どこかでひずみが起こると思うのです。

 

納得していない自分、違和感を感じている自分、

引いている自分をそのまま認めながら、

同時に神父様のおっしゃることを

しっかり聞いて受けとめる姿勢を持っている

ことも大事なポイントだと思います。

受けとめきれない自分がいるということも含めて

受けとめるということです。

そうしながら、お迎えしたご聖体とともに

ありのままに日々を生きるほうが、

人生として、よいものであるように思えます。

 

自分に優しい、人に優しい、あらゆる信者に優しい、

あらゆる非信者に優しい、すべてつながっていて、

人を、人の思いを大切にすることに至っていく。

そして、よいものにつながっていくように思っていますが

いかがでしょうか?

 

さっきのキング牧師の話を書いていて、

今日のお説教の、身も心も捧げる、とは

こういうことかと思いました。

もちろん、キング牧師にとって

死ぬことは本意でなかったはずです。

しかし、結果的にそうなった。

いつのまにか、神の御旨を生き抜いた生があり、

死があったが、死は生を否定することはできなかった。

さっそく、お説教が自分のものになりました。

 

さて、グレゴリオ聖歌はグダグダでした。

ラテン語もだけど、メロディーがダメでした。

来月はしっかり練習して行こう!