RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

聖トマスアクィナスの日

とは言っても、入院中で

ミサには行ってません。

 

トマスアクィナス博士というと、

前田万葉枢機卿猊下の霊名記念日だ、

と、すぐに思うわけですが、

 

私が前に所属していたルーテル教会

鈴木浩教授の好きな神学者でもある、

とお聞きしました。

いつもアウグスティヌスのことを

お書きになっていたので、

ちょっと意外で、へーっと思いました。

 

それで、どんな人なんだろう、と思って

ちょっと調べてみたことがあります。

哲学とキリスト教を融合させた人、

簡単にいうと、そういう事らしいです。

 

もっとも、トマスアクィナス博士のことに

そんなに詳しい訳でも全然ないので、

どんなに素晴らしい人なのか、

自分なりにでも持っているのでもなく…

詳しくはわかんないけど、すごい人、

みたいな感じです。

 

今日は、神のことばの主日の動画で、

高宮教会の様子が

ネットにあがってるのを見ました。

 

先週、聖クララ寮でお世話になった

マキシム神父様が、侍者の子ども達から

受けとった日本語の本物の聖書に

キスしているのを見て、

なんかいいなぁ、と思いました。

 

もちろん、信徒がみことばに親しまなければ、

ただキスだけでもだめですけど、

マキシム神父様の姿を見て何を思ったか、と

いうと、信仰に生きる人の姿を見た、

ということなんですね。

 

単純に接吻に感動したってわけじゃなくて、

マキシム神父様のキス、に思うことが

あった、ってことなんです。

 

先週、神父様の聖アグネスのお説教で

ちょっと引いてる自分もいて、

それは自分に正直になっていいんですけど、

なんというか、わからないんですけど、

 

私の信仰が最近変わったかな、と思うのは、

前はより先鋭的? 深遠的な?

信仰を追求して喜びを感じていたのですが、

最近は、自分を「普通の世間」の中において、

「普通の人」がよいと思えるものを

大事にするようになったのです。

 

私の家族はキリスト教ではないですし、

世の中のほとんどの人もキリスト教でない、

教会の兄弟姉妹といっても

ヘビーな信仰者ばかりではない、

そうした時に、

 

自分が教会の中で、また外で、

相対的に、あるいは絶対的に、

自分の立ち位置を見つめるには

「普通の感覚」を持っていなくてはいけない、

そう思うようになったのです。

 

今でも、「普通の感覚」は

大いに大事にすべき、と思ってるんですけど、

もしかすると、行きすぎちゃって、

「普通でない」けど神様につながる可能性の

あるものを求めなくなっていた、かもしれない。

そうでないかもしれないけど、

もしかしたらそうかもしれない、

と、ちょっと思ったんですね。

 

普通の感覚を大事にしつつも、

求める気持ちも忘れてはいけない、

と、あらためて思いました。