RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

主の晩餐

私がこのブログを再開した時は、

入院中で、SNS禁止で、

発信の方法がなかったから

始めたのですが、

 

今はFacebookTwitter

InstagramTikTok

そして友達とのメール。

 

あと、YouTube

かなりチェックして、

夜はpocochaで

花丸比奈さんと談笑。

 

24時間では

時間が足りない…。

 

今日は、買い物ついでに

自転車の後ろかごの整備に

久しぶりにけっこう外に出ました。

歩いている人も少ないです。

 

ある程度安心ですけど、

人とは距離を空けるように

心がけています。

 

帰ってきてみたらYouTube

東京大司教区がミサを

配信してました。

 

シスターの歌がうまくて

さすがだと思いました。

 

こういうのを見ていると、

ついにこの時が来たと

実感を感じます。

 

復活祭の夜と日中は

タブレットの前に待機です。

 

P. S.

これだけではあんまりなので、

ちょっと思ったことを

書いておきます。

 

今日のお説教で、

タルチシオ菊地大司教様が

信仰の危機にある、ということを

おっしゃっていました。

 

気になって、

菊地大司教様は

何を言いたかったのか

考えたんですけど、

 

聖体拝領も受けられないし、

モニターの前でミサを

見ているだけで、

適当に見ないでほしい、

ということかなぁって。

 

というのは、

私が「信仰の危機」といえば

何を思い出したか、というと、

 

ミサがなかった最初の日曜日、

谷山教会の玄関で

過ごしていたのですが、

そこにキリスト教新聞?

キリ新って書いてあったんですけど。

 

どこかのプロテスタント教会

話が書いてあって、

 

礼拝がない中で、

信徒が教会に来なくなって、

信仰が保てるだろうか、

と心配している牧師の話が!

 

続いて信徒のコメントとして、

何週間か教会に行かないと、

教会に行かないのが

当たり前になってしまう、

と言ったって書いてありました。

 

私は、それを読んで、

はぁぁーっ、ってなりました。

 

文章から、教会に行く癖がついて

リズムができあがっているのに、

そのリズムが崩れることで

共同体が壊れるんじゃないか、

ってことを感じました。

 

それを牧師だけじゃなく、

礼拝に行く主体を持っている

信徒が言い出すのが闇が深い。

 

信徒自身が、行かないなら

行かないでいいかも、と

感じている自分自身がやばい、

なんとか自分自身を

洗脳しないといけない、みたいな…

 

もう洗脳って言葉を

使っちゃいましたけど、

信仰への生き生きとした

主体性がない。

 

牧師も自分のお説教で信徒に

喜んでほしいという意識がないし、

当事者の信徒は自分の問題なのに、

完全に主体性を放棄している。

 

なんというか、

本当の自分の気持ちは

違う部分もあるんだけど、

それは不都合なので、

 

あえて思考停止して

惰性の中に自らを任せるみたいな…。

 

これを洗脳って言わなくて

なんて言うのかな?

 

そういう全然主体性ないのが

自分の信仰なんですか?

なんのために教会に行くんですか。

 

極端だって思う方も

いらっしゃるかもしれませんけど。

 

そんな信仰は生きていない。

教会に向かってゾロゾロ歩くゾンビみたい。

私は言いたい。

あなた達は生きているんでしょう?

 

自分の人生をそんな惰性に

流しこむ人生ってどうなの、

人生は一度だけなのに、

生きているって言えるの?

キリスト教は神を讃美する宗教なのに、

自分の命をスポイルしている!!

 

ゾンビみたいな生活を送って、

そんな信仰を見て育つ子ども達が

感動して、のちのち生き生きとした

信仰を生きるって無理だから!

そんなのは教会から離れたいって

方向にしか行かないから!

 

ほんとう、私だったら、

情けなくてこんなの記事にできない、

って気分になります。

 

1人で何を怒っているの、って

なるかもしれませんけど、

あの記事はそういうことだと

読んだら感じてもらえると思います。

思考停止になることを望んでいる

集団心理のようなものが感じられるのです。

 

私は別に腹を立てるんじゃなくて、

こんな教会のあり方はよくないと

言いたいのです。

悪質なマインドコントロールをする

新宗教と変わらない。

キリスト者として恥ずかしい。

 

私は、コロナウィルスが一段落して

再び社会が動きだしたら、

そのことを喜んで神様に感謝し、

教会に行けることを

もう1つの復活として喜ぶ。

 

同じ教会に行くのでも、

主体性と生き生きとした気分。

義務感ではなく、好意を持って。

希望と喜びを感じながら。

 

そうであってほしいです。