RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

徳勝龍関の初優勝と神学校

けっこう、なんとなく相撲を見ていたのですが、

徳勝龍関が優勝して泣いていたのを見て、

とても感動しました。

 

この感動は高校野球を見ている時の感動に似ていました。

私は、なぜ高校野球はレベルでプロ野球に及ばないのに

人気があるのか、言い換えれば感動するのか、

考えたことがありますが、その時に青春だから、という

結論に達したのを覚えています。

 

徳勝龍関は高校生よりは年齢が上ですが、

やっぱり、頑張って何かをやって、それが花開いた。

それに理屈じゃなく涙が出るんですよね。

心は頭で考えるより正直に、

人間の深い部分を正しく表現していると思います。

 

そういう、人間のけなげさのようなものが尊くて、

見ているほうも心を揺さぶられるのだと思います。

 

さて、今日は神のみことばの主日でした。

今回はインフルエンザ流行の影響で

外泊許可がおりなかったので、

いつもの西新教会でなく、

大名町カテドラルまで歩いて行きました。

 

今日は神学校の先生の牧山神父様が司式され、

哲学科1年の5名の学生の方がいらっしゃいました。

 

牧山神父様のお説教は、

「神のみことばの主日の制定にあたって、

フランシスコ教皇がメッセージを出していて、

中央協議会のホームページから読むことができる。

 

私が読んで思ったことは、言いたいことは、

司祭たち、しっかり説教しなさい、ということかと。

簡潔に、ふさわしい言葉で語りなさいと。

 

エスに「私についてきなさい」と言われた弟子は、

みんな網を捨ててついていった。

なぜ生活の道具である網を捨てることができるのか。

 

私達は、みんな網を持っている。

その網で人生を渡っていくには限界がある。

これでは人生を渡れない、と思った時に、

エスについていく決断が生まれる。」

というようなお話でした。

もっと大切なポイントが抜けているかもしれませんが、

私の覚えている範囲では、こんな感じでした。

 

私自身のことに重ねあわせてみると、

洗礼を受ける時は、網が不十分ということは

ありませんでした。

私はもともと熱心な浄土真宗の信徒で、

ささいなきっかけに教会に行ってみようと思いました。

阿弥陀如来様を信じる気持ちがありましたが、

5年悩んで洗礼が必要と思って受けました。

 

よく宗教に入る時は満たさないものがあると言いますが、

私に関してはまったくありませんでした。

しかし、神秘的な何かは確実にあったと思います。

 

初めて書きますけど、私は43歳で派遣社員です。

先の人生で何をするかということを考えます。

今日の話ではないですけど、根無し草になるより、

求めていただけるのなら、

教区司祭になりたい気持ちもどこかにあります。

 

しかし、飛び込んでいく勇気がありません。

教会から求められ、神である主イエスの弟子の助手として

生きる光栄を感じながらも、

死ぬまで、もしかすると死んでからも、

この人生のすべてを神に投げ打つ覚悟ができません。

 

こうしているうちに、教会からも求められない年齢に

なっていくと思って、焦りを感じています。

もしかしたら、もうなっているかもしれません。

 

ミサの後で、神学生の方々が、大根を配っていました。

一生懸命配っている姿は、とても素敵に見えました。

 

徳勝龍関ではありませんが、若さ、けなげさ。

また、私が言い出せないことを実践している人、

一生を神様にお仕えして過ごす覚悟を持った人、という

尊敬の思いもありました。

 

牧山神父様から、大根いかがですか?

と言われましたが、せっかくの神学校の大根、

欲しいのはやまやまでしたが、

うちは料理が狭くてできないので、

他の方々にお譲りしました。

 

牧山神父様ともっと突っ込んだ話をしたかったのですが、

言いだすのが怖くて、当たり障りのないお話に

なってしまって不完全燃焼の感があります。

せめて神父様とお友達になって、

いろいろ話ができる関係になりたかったです。

 

ですが、もう取り返しがつかない訳ではありません。

しまったと後悔する気持ちがある限り、

機会はあるはずです。