RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

月に1度のグレゴリオ聖歌ミサ

今日はグレゴリオ聖歌ミサに参加するため、

南区塩原の聖クララ寮に行ってきました!

 

第2バチカン公会議の改革で、

母国語でミサができるようになったことは

私はいいことだと思いますが、

 

反動でラテン語は過去の遺物で、

使うのはよろしくないこと、

みたいな雰囲気になった

時代もあったようです。

 

カトリック世界宗教なので、

ラテン語のリタジー

できるようになっていたほうが

いいと思います。

 

ラテン語をスーツのような感じで

神様にふさわしい言葉だと

考える方も少なからず

いらっしゃいますが、

 

私の場合は、

同じ人間の言葉だなぁという感想です。

実際にミサに与ってみて、

母国語で典礼ができることは

すばらしいことだと

あらためて感じる向きもあります。

 

だからといって、ラテン語典礼

グレゴリオ聖歌が要らない、というのも

ちょっと両極端じゃないかなぁ。

やっぱり大事な教会の財産ですよ。

 

司教様の紋章にラテン語

書いてあったりすると、

ありがたみがありますねー。

 

今日のマキシム神父様のお説教は、

食事をしたり、花火を見たり、

世俗的な「ある意味で」美しいものを

楽しむこともあるが、

 

楽しみは自分のためで、喜びは人のため。

楽しみだけでなく、喜びも大切にしよう、

ということと、

 

クリケットの試合で他の人に

細かくダメ出しをする神父様がいたけど、

その神父様は自分の打席では

全然打つことができなかった。

 

それと同じで、求道者の前で

人を愛しなさい、とか、

自分の財産を投げ打って

人を助ける話をするけど、

自分がそれができるだろうか。

 

一度、求道者から、

「神父様はそれができるんですか?」

と聞かれたこともある。

自分もなかなかできない。

 

主の祈りで、私たちを誘惑に陥らせず、

と祈ると、神が誘惑していると思うかも

しれない。あるいは悪魔の誘惑だと。

 

しかし、誘惑しているのは、

実は自分自身の欲望なのだ。

 

神様と共にいることで、

悪に打ち勝つことは必ずできます。

という内容でした。

 

マキシム神父様の言葉は、

自分自身も思うようにいかないことが

あると自分で認めたうえで、

それでも困難に打ち勝つことができる、と

高い理想と希望への邁進を感じました。

 

私はというと、自分が楽をしたいから

席を譲らなかったりすることがあります。

他の人が席を譲っているのを見ると、

信仰を持っていない人のほうが

御旨にかなったことをしていると

恥ずかしくなります。

 

他にもいろいろあって、自分の中で、

今、イエス様を正視してないな、

ちょっと目を逸らしているな、

というのは確かに思うんですね。

席を譲らないのもそうです。

 

エスのいない人生は考えられない、と

思っているのに、

そうやって目を逸らすのは、

人間らしいと割り切るのもやりすぎ、

見えない迫害に転んでいるのかもしれない。

ソンジンウク神父様なら偽善といいそうです。

 

いろいろ難しいですねー。汗

 

ミサと聖体賛美式の後に、

イスラエルのナルドの香油と、

マッケイ神父様の油を

ミックスしたものを

額と手のひらに十字架の形に

塗ってもらいました。

さっそくいいことがありました!

 

私は、マグダラのマリア

とても好きなので、

そう考えると余計うれしいですね♪

 

終わったら、すぐ帰っちゃいました。

親と天神に行くことにしていたので、

イタリア人の知人とかマキシム神父様、

参加者の皆さんと

親睦を深めるいい機会だったのですが、

こはちょっと残念ではありました。