RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

マグダラのマリア

昨日の心の天気は、くもりのち暴風雨。

また、荒れてしまいました…。

 

聖歌やリベラの歌を聴いたりしているうちに

落ち着いてきました。

荒れている時にみははマリアとか聴いていても、

何か自分が偽善にまみれているような気が

するのです、が、

そのことを自問自答した時、

自分が落ち着きや安らぎを見いだしている

ことが分かるのです。

 

落ち着くと感じるものを単純に選ぶのは、

けっこう大事なことかもしれません。

 

今日は昨日、マグダラのマリアのことを

ちょっと書いたので、続きを書きたいと思います。

 

私の洗礼名は、ラファエルとヨセフです。

RJNKのRJはその意味です。

ラファエルは癒やしの天使様、

ヨセフは自分の子でないイエスを育てた

慈愛あふれる父というイメージです。

 

ですが、洗礼を受けた後、

もっと言うと、この1、2年で

マグダラのマリアが好きになってきました。

今では一番好きな聖人かもしれません。

 

マリアは姦通の罪を犯してしまい、

石打ちの刑にされそうな所を

エスに助けられた、とされています。

 

されています、というのは、

私はずっとそのように聞いてきたのですが、

正教会(オーソドックス教会)では

聖書に出てくる姦通の女を

マリアだとみなしていないらしいのです。

 

しかし、私はカトリックの信徒なので、

西方教会の伝統どおりに考えて、

 

まず、マグダラのマリアは、

姦通の罪を過去に犯していた人です。

売春婦だとする捉え方もあります。

そこをイエス様に助けられて、

優しい言葉をかけられます。

 

次に、マリアはマルタと違って、

客人のもてなしそっちのけで

エス様のお話を聞いて

マルタに不平を言われます。

 

マリアの態度はひょっとしたら

常識がない、なんて

言われるかもしれません。

しかしイエス様は、マリアの姿勢を

お褒めになりました。

 

さらにマリアはイエス様に

大量の香油を注ぎます。

涙で足を拭ったとする福音書もあります。

これも常識はずれの量で、

弟子たちに咎められるのですが、

またもやイエス様はお褒めになります。

 

かつていたルーテル教会の聖書研究会では、

この大量の香油はイエスに対する

終油の秘跡であったと教わりました。

 

最後にマリアは復活のイエスに出会いました。

 

ポイントが3つあります。

マリアが姦通の人であったこと。

マリアの行動は直情的で、

常識はずれな程であること。

マリアが福音書において存在感を持つこと。

 

私達は売春まではしないでしょうが、

みんなうしろぐらい所があると思います。

ところが、イエス様は

とても優しくしてくださいます。

 

マリアは姦通をやめて、

エスについていきます。

その方法は極めてシンプルで、

人に咎められるほどですが、

エス様はかえってお褒めになります。

まさに「幼子のような信仰」じゃないかな、

私はそのように感じています。

 

世の中は、尊敬に値する人間から

傷の部分を隠そうとします。

逆に、すねに傷のある、見える傷かな、

そういう人は表舞台から消されるなどします。

 

するとみんな品行方正に振る舞って、

偽善のようになります。

行儀が悪いとそれなりの評価になります。

 

ところがマグダラのマリア

元々売春婦だったかもしれない人で、

その人が生身で、そのままの自分で

エスにただついていく訳です。

 

そこには体裁とか、自分のような

罪深い者が、という遠慮とかなくて、

ただ純粋についていく訳です。

 

そしてイエスに褒められ、認められ、

最後には復活のイエスまで見る訳ですが、

そこまでじゃなくても、

 

罪深い人間がそのままの自分で

エスに愛され、

正直な自分でイエスに従う姿は、

信仰者の心に、自分の分身のような

強い共感を感じさせてくれる。

 

私にとってはそういう存在です。

 

ところで、鹿児島で、

マリアマグダレナの洗礼名を持つ

信徒さんと以前仲良くさせて

いただいていました。

 

とてもシャキシャキしている方でしたが、

神父様の面倒をよく見る方で、

一部の神父様からは

とても慕われていました。

 

相手が神父様でもずけずけと

ものを言うイメージが強いのですが、

その実とても心がある人ですし、

だから神父様と仲がよかったのだと思います。

 

私は、神父様は皆

霊的な兄弟だと思っています。

 

プロテスタントの牧師は教職で、

その人の言う内容で良し悪しを

判断しますが、司祭は教会のために

セリバシーを貫いています。

 

正教会の司祭は結婚できるそうで、

カトリックはなぜ独身なんだろう、

結婚できるのとできないのでは

大違いの人もいるのに、

とは思うのですが、

 

教会に身を捧げたのだから、

私たち信徒が彼らの家族だし、

亡くなってからも

ずっと私達の心に生き続けなければ

いけないと思っているし、

 

また、それぞれの神父様が、

私たち信徒をお客さんのように

思うのではなくて、

家族として自分の思うままに

接してほしいな、と私は思っています。

そこが言動だけで評価される牧師と

まったく違うところです。

 

私とマリアマグダレナさんは

キャラは全然違うのですが、

神父様に対する姿勢はよく似てるな、

というのは感じています。

 

ただ私の場合は行動力がないというか、

人徳がないのかもしれませんが、

あんまり神父様と距離が近くなった

気はしないですね。苦笑

彼女には到底およびません。