RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

メメントモリ(前半)

昨日、朝の散歩で病院から外出して

天神を歩いていた時、

なんとなく思っていました。

 

家は人が住まないと傷むというけど

人間の心も人が住まないと傷むかも…

 

出会う人を大事にしたいと思いました。

 

何度も書いていますが、

私は学校がカトリックで、

今もカトリックの信徒ですが、

最初に通った教会は

日本福音ルーテル鹿児島教会です。

 

それで今もホームページを見ています。

 

毎日更新されるホームページに、

グレースハンセン(ハルセン?)という

人のことが書いてありました。

 

どんな人だろうと思って調べてみると、

同じ人なのかはわかりませんが、

 

「人生が終わってしまうことを

 恐れてはなりません。

 人生がいつまでたっても始まらない

 ことが恐いのです。       」

 

という名言がたくさん出てきました。

 

ハッとしました。

確かに私の人生は始まってないな、って。

 

私は洗礼を受けたことを喜んでいまして、

一時期、教区司祭になることを

けっこうまじめに考えていましたが、

だんだんその気持ちが薄らいできました。

 

考えるのは、お世話になった

鹿児島司教区の神父様たちのことや、

前にも書いた、若くして観想修道院

シスターになった人のことです。

 

本当にそういう生き方がいいのだろうか、

という気持ちがあって、言い換えれば、

元気なうちはそれでいいかもしれないが、

死ぬ時に人生を後悔しないか、

という思いがあると思います。

 

あと、私は神はいると

心の深遠から信じていますが、

根強い不可知論への傾きがあると思います。

 

私は元々、熱心な浄土教の信者で、

同時に神は唯一の存在だと思っていましたが、

神はあまりに偉大すぎて

その存在を人間ごときに認識することは

不可能であるとも信じていました。

 

浄土教阿弥陀仏による浄土への救済を

信じる宗教ですが、阿弥陀如来

神でもなければ全能でもないので、

不可知論と根本的に矛盾することは

なかったのです。

 

キリスト教を信じるにあたって、

障害となったのは、

拭えない阿弥陀如来への信仰と感謝の心を

どう考えるべきか、ということと、

 

自己の本質的不可知論への傾き、

すなわち偉大な全能唯一の神を

聖書の主とイエスと提議していいのか、

もしかして神への冒涜ではないか、という

深い部分からくる疑問でした。

 

すみません、昨日、消灯時間を過ぎて

電子機器を使っていた人が

看護師さんから怒られましたので、

今日はここまでにします。

 

明日、この続きを書きます。