RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

二世信者問題はカトリックに無縁か?

最近、読んでくださる方が増えているようです。

 

前は1日10名くらいの方がお越しくださって

いましたが、今は30名様くらいです。

 

とても有り難い事だと思いますが、

これはうかつな事を書くと大変なことになるぞ…

ということも感じています。笑

 

当たり障りのないことを書くって意味じゃなくて、

プライベートなことをうっかり書いたら

関係者に迷惑がかかることを心配するのです。

よくよく気をつけないと!

 

家族の間でCOVID19を警戒する声が高まっていて、

日曜日のミサにも行くなって怒られます。

 

さすがに日曜日はそれでも行きますが、

週日は、どうなんですかね…。

少なくとも今日は行きませんでした。

 

この前あったことを今日は書こうと思います。

 

旧約聖書に恐ろしい記載が多いとか、

遠藤周作文学は当初キリスト者には

受けが悪かったことを調べていたら、

信仰を捨てた二世の福音派信徒の記事を

見かけました。

 

読んでいると、そこの教会は

罪と救いのことで、

カトリックとはちょっと

ニュアンスが違うところもありましたが、

 

二世の信徒さんが信仰を捨てるまでの

葛藤とか、心の痛みが伝わってきて

心苦しかったし、はて、自分はどうなんだろう?

そんなふうに思わされました。

 

ちょっと前にエホバの証人の二世信者が

信仰を捨てて、

「カルト宗教信じてました」

という本を出版したのが

ネットでニュースになっていましたが、

 

カトリックは緩いけど、

やっぱり程度の差はあれ、

同じような葛藤を

心に抱えているのではないか、

という思いが拭えませんでした。

 

エホバはカルトだからね…

という世間の人がするような

「切り離し」をする気には

なれませんでした。

 

私も、本当に信仰にすべてを

捧げられるか、と言われると、

どこか怖いと思っちゃうんですよね。

 

脇目もふらず一筋に突き進む、

という生き方はなんか危険だと

思う心を持っているんですね。

 

だからといって信仰を捨てようとは全く思わない。

神の愛のすばらしさや、神の臨在を

リアルに体感した経験がある人間ですから、

信仰を捨てるなんてとんでもないと思います。

 

そこの違いはありますが、

脱信した二世信者のおっしゃる気持ちは

決して理解できないものではありません。

五十歩百歩なのかもしれないし、

百歩まで行かないことにこそ

意味があるというものかもしれません。

 

1つ思うのは、信仰を捨てる人は、

「自分で選んだ道ではない」

というのがポイントになっていますね。

 

宗教の中にいて、中の信者さんには

悪い印象はないようですね。

しかし教義に縛られて、

自分で生き方を選択した体験をしていない。

 

宗教のドクトリンのせいで、

他の人が歩む自我の成長の道を

歩めないまま大人になってしまった。

私の人生を返してほしい、

そういうのが共通しているようですね。

 

そこはお子さまをお持ちの方は

考えていたほうがいいかもしれませんね。

 

さて、現実の教会を見つめてみます。

教会に来ている二世の人は、

自然体の人が多いですね。

よくボンクリというくくりで

自称する人もいますが、

 

自分でボーンアゲインしたという

特有の熱さや使命感は全くなくて、

でも信仰を離れる必要もまたない、

距離感を熟知しているような

印象はないでしょうか。

 

教会に全く来ない人は

どう思っているかわかりません。

 

繰り返しになりますが、

一方的なものを一方的に

押しつけるのはよくないし、

いい結果も生まない、

そのことは心得ておくべきでしょう。

 

今日郡山司教様のそれでもブログを

読みました。読後感が大変よかったです。

子供のかわいらしさが伝わってきました。

 

前にも書きましたが、

カトリックの聖職者は

結婚することも

子供を持つこともできません。

 

司祭にそこまでの

セリバシーを求める必要があるのか、

しばしば男性限定制度と並んで

議論のポイントになるわけですが、

 

郡山司教様のブログは

そういう思いを超越していて、

静かに孫のように子供達を見守る。

 

この姿勢はさすが聖職者です。

郡山司教様の資質、人徳を思います。