RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

離れて従う

いつもたくさんの方に来ていただいて、

ありがとうございます!

 

今日は、郡山司教様のブログについて

書きたいと思います。

 

日本は横並びの感覚が強くて、

これで本当に自由主義国家と言えるのか、

というのがありました。

 

郡山司教様は、ずいぶん遠慮されて

いらっしゃるようですが、

ブログを見ればとても性格が出ています。

 

私は思うんですけど、品よく書こうと思えば、

誰が書いても品よくなります。

自然体の文章こそ、その人の持っているもの、

あるいは味が出ると思うんです。

 

郡山司教様の文章から品位が感じられるのは、

やっぱり人格が出ていると思うんですよね。

 

私の文章はもっと混沌としていると思いますが、

これからも思いのままに書きたいです 笑

 

もう1つ印象的だったのは、

「離れて従う」という言葉です。

 

ペトロは網を捨ててイエスに従った。

 

召名を受けた人は、まさにそんな感じです。

離れたことに心の痛みはあるのか?

見た感じは、平安に日々を過ごされて

いると感じるのですが…。

 

この離れるというのは、

程度の差はありますが、

私たち一般信徒にもあると思います。

 

例えばミサに出たことによって、

私は楽しみにしている

将棋の番組が見られません。

 

将棋の楽しみから離れて

礼拝と聖体拝領を取っている訳です。

 

私が子供の頃、日曜日の朝に

楽しみに見ていた番組で、

とんがり帽子のメモル」という

アニメ作品がありました。

 

大人になっても、とてもいい思い出で、

言ってみれば心の財産となっています。

 

教会に来ている子供達は

プリキュアとか見られないだろうなぁ、

というのは思うところです。

 

大人になって、教会に行っていたので、

みんなが見ていたプリキュアだったけど、

知らないで育った、みたいになると

けっこうかわいそうだと思うので、

ぜひビデオに録ってあげてほしいと思います。

 

今は TVer っていうインターネットの配信も

ありますので、ぜひお子様のために

ご配慮いただきたいなぁ、と思っています。

 

話は戻りますが、離れて従う、の

最終段階ってのは、この世との別れ、

すなわち死んだ後に霊的な存在となって

神に従う、ということだと思います。

 

死んだ後は開き直りがありますけど、

死ぬまでは、この世の秩序から

離れることに抵抗があるのも事実です。

 

家族との時間を大事にしたい。

楽しいこともやりたい。

友達と楽しく遊びたい。

もっと人生キラキラして生きたい。

 

そういう世界を手放すのは嫌だし、

逆に悪いことのような気さえしませんか?

一度の人生を無駄につまらなく生きるのは、

命への冒涜だという気持ちがありませんか?

 

Memento Mori の解釈が

人によって真逆になるのは、

そういう人間の心理が

よく現れていると思います。

 

私達は信仰にアーメンと言っても、

離れることは嫌なんですよね…。

 

今日はルーテル教会に行ってきたので、

そのことも書こうと思いましたが、

かなり長くなったので、

またの機会にします。

 

来週中には書きたいです。