RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

十字架の道行き

書く内容が今朝書いたことと

違うことをお許しください。

 

人間の内面とかセクシャリティーを

突き詰めると鬱になるんでしょうか、

繊細な部分に触れてしまうんでしょうね。

今日は1日、精神が不安定でした。

とても日記どころではなかった。

 

昔は、たくさんの抗不安剤を飲んでいて、

家にいて、突然怖くなるような症状がありました。

 

そういう時に、抗不安剤をたくさん飲むんだけど、

全然よくならなかったことを思い出します。

ワインを飲んで気を紛らすこともありました。

今思うと、不健康だね~って思います。

 

今は入院していた精神病院の方針で

徐々に薬を減らしていって、

ついに何も飲まない所まできています。

 

最近、家にいると落ち着かなくなることがあって、

安心したくて薬を飲みたいって思うことが

あるんですけど、薬はないですからね。

いいことだと思いますよ。

 

ダラダラ書いていてもあれですので、

今日は「十字架の道行き」の話をします。

 

この前、神のお告げの朝ミサに出た時、

有志で十字架の道行きをしました。

 

あれやってると、痛々しいんですよね。

釘で打たれたり、流血したり。

いいっっっ… ってなっちゃいます。

 

十字架につけられて死に 葬られ

よみに下り 三日目に死者のうちから復活し…

 

そういう言葉では意識しないことを

十字架の道行きでは感じます。

 

息も絶え絶えに十字架を背負い、

釘に手のひらと足を貫通して血が流れて…

やがて心臓が止まり、さらに脇腹を刺されて、

そこから血と水が流れ出し…

 

この一連の課程、

生命が傷ついて駄目になっていく課程を

観想するのですから、

そりゃ嫌な気分ですよねぇ。。

 

聖金曜日は、正午から3時間も

この雰囲気が続くんですよね。

重いですね。

 

教会の外の人からは、

キリスト教は生命を至上のものとして

見ていないのではないか?

 

崇める対象のイエスキリストは十字架で死んだし、

殉教者の血を讃えているのだから。

 

そういう声も聞こえてきます。

あながち間違いではないと思います。

 

教会で「いけにえ」や「sacrifice 犠牲」を

キーワードのように訴える聖職者は

それなりにいらっしゃいます。

 

Divine 神性に与るために、

エスがそうであったように、

この世の中の物、生命でさえも神に捧げるなら、

本物の朽ちない永遠の命につながる。

 

そういう思想が教会の中に存在するのは、

気のせいではなく事実だろうと思います。

 

確かに、言いたいことは理解はできます。

 

だけど、血が流れて、体が傷つけられていって…

それを恐ろしいとか、否定的な種類の感情が

心に浮かんだとしても、ある意味当然かな?

 

私が何を言いたいかというと、

教会って、そういう声は表に出にくいんですよね。

 

隅に追いやられてしまうのもあるし、

どうかすると、そういうのを表に出すと

すごく嫌がる人が一定数いて、

あの人の信仰は弱いとか、センスがないとか、

最悪、本物の信徒ではない、みたいなことに

なりかねないみたいなのって。

 

時に命を投げ捨てるような犠牲を大事にする

信仰を持っていてもいいのですが、

それってどうなの、怖い、みたいな意見は

なかったことにされるみたいな。。

それも納得いかないんですよね。

 

思い出すのは、敬虔なカトリック教徒の

メルギブソンさんが私財を投げうって

作られた映画、The Passion of the Christ。

邦題パッション。

 

エスが苦しみを受ける聖書の場面が

淡々と、それだけに凄惨に再現されるそうです。

 

あまりの残酷なシーンに、見に来たお客さんが

ショック死したケースが何件かあって、

悪趣味だ、という批判の声があがったそうです。

 

そういう世の中の声に反応して

バチカンが出した声明は、

「映画は聖書の内容に則している」

というものだったそうです。

 

私は、メルギブソンさんが自分の私財で、

信仰を証したもので、その価値を感じます。

まさに財産をはたいて、その財力で

映像版リアル十字架の道行きを作り上げた、

というふうに私は捉えています。

 

エス様がどんなに苦しまれたか。

目を逸らさずに見つめることも必要かなって。

人間のためにそうなったのだから、

見なきゃいけないみたいな気持ちもあります。

 

一方で、ショック死したり、

こんなのは悪趣味だと感じたのは、

それは人間の自然な反応だということが

ここに表れています。

 

人間は、過越の神秘を感動する気持ちもあるし、

怖い、恐ろしい、ある意味で気持ち悪い、

そういう感情も感じる気持ちもあるんですね。

 

しかし、教会では犠牲の素晴らしさは表に出ても、

恐ろしいとか不気味だと感じる人達の心は

どういうふうに受け止めているのかな?

教会の門を叩いて教会につながった方、

そこはどうなんでしょうか、お聞きしたいです。

 

昨日の、Urbi et Orbiで、十字架につけられた

エス様の像が出てきました。

手足は釘付けられ、その肢体は力なく…

どうしてこんな姿にならなければならないのか。

 

私は、そう感じました。

 

しかし、うつむいたイエス様の表情からは、

主の愛の心も感じてとることができました。

 

私は、過越の神秘を怖いと感じる人達に

申し上げたいです。

 

怖い、気持ち悪いと思っていいんです、

それ正常な反応ですから。

間違ったことは何もないですよ。

 

過越の神秘って、人間にはわからない。

わからない、そういうものなんでしょうね。

それが正解なのかもしれませんね。

エス様のことを思って一緒に祈りましょう。

 

今日は、鹿児島用に

新しい電動自転車が届きました。

 

うーん、天文館にも中央駅にも

歩いて行っちゃうし、

10万円近くも出して必要かな??

 

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