RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

神原理主義と人間

今日は、1つだけ書きたいと思います。

 

私が、なぜイエスの十字架を

受け入れがたいのか。

 

私達は、この世において、

人間を最上位のものとして考えます。

 

人間の生活を美しいと感じるし、

人が困っていたら憐憫の情を抱き

その人を助けるための犠牲、

お金や行為の犠牲も少しなら惜しまない。

 

言うまでもないけど、

よく考えてみれば、人間であることで

特別な扱いを人間がしています。

それは、近代では人権と呼ばれます。

 

人間は人間に対し、尊厳、憐憫、

尊敬、同情、愛情の念を抱く生き物である。

 

そのようにするのは正しい。

 

エス様の十字架の犠牲は、

私達が人間に尊厳を感じるから、

命が失われることに

ネガティブな感情を抱くのです。

 

私は、それは人間として、

極めて自然な感情だと思っています。

 

キリスト教を信じる上で、

主の十字架は避けては通れないもので、

ネガティブさと、神の究極の御業という

ポジティブさの解決できない矛盾。

 

それを解決するには、

過越の神秘。神秘。奥義。

人間にはさっぱりわかりません、

という以外には

ないのではないでしょうか。

 

私の知っている人で、

セブンスデーアドヴェンティストの

クリスチャンの男性がいます。

 

同じ法律事務所の女性と

結婚したのですが。

その男性は、

教派はどこでもいいから、

本物の教会で結婚したいという

意向を持っていました。

 

しかし、奥さんがそれを嫌がり、

結局、ホテルで人前式を上げました。

 

奥さんは、単に信仰心がないだけでなく、

神様の前で結婚するより、

人間の前で結婚するべきだ、という

考えがあったのではないでしょうか。

 

人間を大事にするというのは、

何も悪いことではない。

そういう考えもアリだと思います。

 

でも、私個人で言えば、

神のいない生き方はしたくない。

 

それは、キリスト教を信じていて、

神が「いたのにいなくなる」ことが

寂しい、というのもあるし、

 

元々、人間は神様とか、天国や地獄とか、

見えないのに信じる心の動きを持って

いるのに、それを否定する生き方は、

私の生き方ではないかなと思います。

 

しかし、逆の考えはどうでしょうか?

原理主義を重視するあまり、

神の摂理の前なら、

人間を粗末にしてもいい…というか。

 

歴史の中にも、神の名のゆえに、

人間が迫害されることもありました。

 

わかりやすいのは、十字軍。

タリバンや厳格なイスラム国の処刑。

インドネシアの鞭打ち刑。

ソフトな所では、女性のブルカなど。

 

そういうのは、多くの人が批判します。

私は、それが自然な反応だと思います。

原理主義のあまり、悪と断罪して、

神を知らなければやらないような

ひどいことを人にしてはいけない。

 

神を信じながらも、この世において

人間中心であるように大事にする心は

失ってはいけないと思います。