RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

神のいつくしみの主日

今、ザビエル教会は、

週日はミサをやっているみたいですが、

母が、COVID19が収まらないうちは

少人数でも絶対ダメという考えなので、

教会には行っていません。

 

今日は、ひさびさでした。

インターネットで関口のミサを見ました。

 

聖書の朗読を聞いていて、

やっぱり聖書はいいなぁ、と思いました。

 

カトリックプロテスタント

はっきり負けている所は、

霊的なウィットに富んでいる聖書に

聴こうとする姿勢が弱い所ですね。

 

私達信徒1人1人が、感動して聖書を読む姿勢を

持つことが望ましいですし、

そういう人が増えればなぁ、と思います。

 

今日のお説教の間、菊地大司教様が

左右に揺れていたのが印象的でした。

 

今日のクレドは、

ニケアコンスタンチノープル信条でした。

ザビエル教会もニケア信条なんですけど、

メロディーは違う物を使っています。

 

復活の主日のミサでも使徒信条だったので、

ん? って思うんですけど、

今、関口のミサは3000名以上の方が

参加されています。

 

カトリックの方がほとんどでしょうが、

プロテスタントの方も見ていらっしゃるかも

しれないし、キリスト教に興味のある

信者でない方もご覧になって

いらっしゃるかもしれません。

 

いずれにしろ、3000人という数字は、

普段の公開ミサより人が多いわけで。

 

菊地大司教様としても、宣教のため、

信者の満足のため、気合いが入ると思います。

 

お説教にも、いつもにもまして

気を配っていらっしゃるかもしれません。

 

聖歌を歌う時、今日も声が震えた所がありました。

私は、聖歌を歌うと、霊的に感動して、

興奮して声が震えたり、

つまって出なくなることがあります。

昔のレコード大賞の歌手みたいな感じです。

 

復活徹夜祭の時もそうでした。

プロテスタントは日曜日の日中しか

礼拝しないと思いますが、

カトリックは、イースタービジルのミサ、

土曜日の夜が典礼の最高潮です。

この日に声に詰まるのは仕方がないと思います。

 

 声に詰まる、というと思い出すのは、

パウロ郡山司教様。

 

一時期、韓国の神父様を

5人受け入れたことがありました。

 

韓国では司祭あまりで、

国内ではなかなか司祭の仕事ができません。

それにもかかわらず、

神父様になりたい人は後を絶ちません。

 

そういう中で、宣教師になったり、

外国で司祭職を目指す人がかなりいます。

5人の神父様も、そうです。

 

郡山司教様は、5人の話を聞いた時、

ちょっと多いと思ったけど、

残るのは半分だと思って、5人とも認めました。

結果的に5人とも諦めずに、叙階されました。

 

全員ではなかったと思いますが、

司祭叙階式の時は、

韓国からたくさんの親戚や巡礼団がきて、

主の祈りだけは、韓国語の、韓国で使われている

メロディーでも、唱えられました。

 

その後、司教様が、「いつくしみ深い父よ、

すべての悪から私達を退け、現代に…」と

お祈りをするんですけど、声は震えるわ、

言葉に詰まるわ… 

 

司教様は泣いているんじゃないか、

そう思った人は少なくないんじゃないでしょうか。

 

後からブログを見ましたが、日韓関係が

うまくいってない中で、韓国語の主の祈りが

捧げられたことに感動したらしいです。

 

そうですね、私が聖歌で声が震えるのも、

自分が思っている以上に、ミサで神様の前で

信仰を言い表すことに感動しているんですね~。

それはいいことだ。健全だ。

 

最初は驚いた郡山司教様の「異変」ですけど、

韓国語の主の祈りが歌われた後の、

すっかり名物の光景となりました。

 

聖歌に関して、もう1つ。

典礼聖歌を聞いていると、非常にシンプルです。

今日は、そう思いました。

 

カトリック聖歌集にも、讃美歌にも、

例をみないシンプルさです。

最近流行りのプリント聖歌集と比べても…。

 

答唱詩編のために作られた曲で、

交唱になっているから、というのもありますが、

「鼻歌で歌える歌」というのが、

大きいんじゃないでしょうか?

 

私は、気がつくと、歌っていたりします。

 

かつて求道を始めてすぐの時、

長崎大司教区の神父様から、

「聖歌をたくさん覚えなさい。」と

言われたことがあります。

 

典礼聖歌もそうですけど、歌を歌っている時は

気持ちがいいですし、歌詞も頭に入ってくるし、

信仰の意味でも、元気が出てくる気がします。

 

その時は、聖歌もいいけど、やっぱり基本的には

聖書やカテキズム、黙想、観想では…

なんて堅物ぶりを発揮していましたが、

それは否定しないけど、

聖歌をくちずさめる良さは確かにありますね。

 

しかし、私も昔は品行方正型だったのに、

ずいぶん軽いっぽくなって、

変わったなーと思います。

人格は一緒なんですけどね。

 

基本的に同じように典礼していますけど、

ちょっと変えてる部分もあります。

 

先週に引き続き、聖変化の間は

ひざまずいて配信を見ました。

 

神の栄光と賛美のため… は

配信では言ってません。

なんでかな?

いけにえっていうのがおどろおどろしい?

 

私は、自分で今日は言いました。

 

それと、神の子羊の食卓に招かれた者は幸い…

のところで、1970年の典礼改正で

ガラッと変わっちゃったんですけど、

規範版とかけ離れた祈りになってしまいました。

 

このかけ離れた、というのと、

聖体拝領前にふさわしいのは規範版じゃないの

かなぁ、っていう思いが、時々あります。

 

今日はネットなので、規範版をやってみました。

日本語の訳はないので、

Domine, non sum degnus,

ut intres sub tectum meum

sed tantum verbo,

et sanabitur anima mea

と言いました。

 

ラテン語けっこういいなぁって思いました。

入院中に、外出して大橋(塩原)の

ラテン語ミサに出るために、

がんばって練習してたので、少し実になって

います。努力は報われるんですね。

 

もっとも、今日はこの祈りをしたけど、

聖体拝領はありませんでしたけど!

 

COVID19の問題で、パパ様の祈りがあります。

外国の祈りは、日本の司教様が作った祈り以上に

マリアへの祈りが出てくる気がします。

けっこうきわどい表現になるとドキッとします。

 

日本はプロテスタントに気を使って、

聖人崇敬が過度にならないようにと思っています。

私も、けっこうそうですね。

配信を見たプロテスタントの人が

どういう気分になるか考えてしまいます。

 

聖体賛美式の最後の祈りも、

私はけっこう気になっていましたね。

主のみ聖なり、主のみ王なり、

(原文ではあなたのみ聖、あなたのみ主)

ではなかったのか、と思いました。

 

ある時、思いきって竹山神父様に、

あれはやりすぎのような気がしています、

と言いました。

 

竹山神父様は、少し残念そうな気もしましたが、

いつもの静かな穏やかな口調で、

「おかしくはないけど、今の時代は

 反動がきているのかもしれないね。」

とおっしゃいました。

 

竹山神父様は、死ぬまで司祭としての

自分の召命に忠実な人でした。

ものすごく多くの教区民に愛され、

死んでますます熱烈な尊敬を集めています。

 

私も、竹山神父様のおかげで、

洗礼を受けることができました。

すごい人生を見させていただきました。

 

話は戻りますが、パパ様の世界への祈り。

もちろん、今日の祈りはいいと思います。

 

マリア崇敬っていうけど、キリスト教

砂漠の一神教で、強烈なほどの男性原理主義

女性であり永遠の母マリアを崇敬できることは、

女性を賛美できるという意味ではいいことかと…

 

なんかフェミニズム神学のようですが、

中世近世の欧州社会においては、

そういうのって、必要だと思います、私は。

 

閉祭は、レジナチェリのラテン語でした。

チェリは、caeliとcoeliの2つの書き方が

ありますね、私はcoeli派です。

 

シスターは本当、歌がうまいんですけど、

LをRで発音していたのが気になりました。

私はラテン語の時は、LはLで言います。

 

Rの時は少し巻くこともありますが、

イタリア人みたいには巻けません。

犬が威嚇しているイメージで

練習するといいと思います。

 

終わりに、ご復活おめでとうございます。

と出たのが、よかったです。

イースターのオクターブも今日まででした。

 

教会には行けませんが、

復活節はまだまだ続きます!