RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

異性装から考える性概念

最近、私がユングの心理学の、アニマとアニムスの話に近い考えとして、自分で考えた「女性原理主義」って名前の説を説明しようとして、なかなか書けずにいます。最近、自分の中の大きなテーマである、この説を書いてしまうと、あんまり実の詰まった内容はネタ切れになってしまうのではないか、と思っています…。せっかく最近、読者さんが増えてきたのですが。
 
そこで今日は、男性がスカートを履くこと、という尖ったテーマで書いてみたいと思います。私は女装男子さんをネットで応援していて、男性が女装する意味を考えています。女性になりたい方とか、女性になりたいわけじゃないけど、かわいくなりたい人とか、女装すると興奮を感じる人とか、もしかしたら男性との出会いを求めているのかな?と思う方まで…。いろんな方がいらっしゃることに気づきます。
 
私の概念でいえば、女性は男性に似た存在です。私は、男性が女性で似た存在であることには強い執着する持っていますが、女性でなくてもいいという考えで、女装はしなくてもいいのです。しかし、女装をしようしようとする男性を抑止するものは社会的性差ですが、そういう「差別」が本当に必要なものなのか、考えています。社会的性差は否定される傾向に進んでおり、女性を女性であるがゆえに縛るもの、男性を男性であるがゆえに縛るもの、それらを差別かもしれない、という観点から疑って考え、女性の性別で生まれてきた人、男性の性別で生まれてきた人、すべての人間が本来の自分のありのままの幸せな状態で生きられることを望んでいます。
 
そこで、手始めに、自分がワンピースやスカート、ブラウスなどを買ってみて、何が起こるか様子を見てみようと思いました。しかし、実際に買おうとしたら、怖い、というネガティブな感情しかわかず、買うのをためらわれました。私は若いんだし、男性だって人間だから、どんどん望む格好をしなさい、と言っている人間で、そんな自分が怖いと思うのは、逆にとても意外なことでした。そのことを友達にメールで話した様子がネタになると思ったので、今日は、それを以下転載します。
 
私が恐怖を感じたのは、社会に対してある意味で対立した概念を主張することではありません。私は、女装男子とか、そこまでいかなくても男性が男性であるがゆえに生きにくいこと、女性が女性であるがゆえに抑圧されていること、それが社会にとってどういう意味を持つのか。もし、それを否定したら、社会にどういう影響を与え得るか。それらの区別あるいは差別を1つ1つつぶさに考察し、私は一度プロテストしてみる価値がある。伝統を疑え。惰性を打ち壊せ。私が女装することにより、性差によって人間を抑圧し傷つけるものに一石を投じ、それによって私の中、および社会に何が起こるか様子をみてみよう、という気持ちは私の中にあります。
 
私が感じたネガティブな感情というのは、私の中に潜んでいたアニムスの叫びだったのではないか、と思います。私が中学1年の時、体育祭の応援団で、高校生の先輩からチアボーイをやらされそうになりました。チアボーイというのは、女子がいないラ・サールにおいて、中学1年の背の低い生徒から選抜され、おそろいのTシャツにスカートを履いて音楽にあわせてダンスを踊る部隊です。けっこうアクロバティックで、側転が取り入れられたりしています。腐向けのような設定が現実に存在します…。
 
私は本番で使う音楽の、プリプリのdiamondsを聞きながら振りつけの練習をしていました。ダンスは小学6年までマスゲームがあったし、別に抵抗はありませんでしたが、スカートを履くことに物凄い抵抗がありました。今は普通の格好だけど、本番では確実にスカートをはかなければならない。もしかしたら通しの練習もあるだろうし、練習が進んだら、途中からスカートを履かないといけないかもしれない。その日はいつくるんだろう? 嫌だなぁ…。毎日憂鬱でした。3日くらい練習をして、休憩で窓際に座っていた時、私は涙を流していました。つらくて泣いてしまったのです。優しい先輩がそれを見ていて、こっそり私をパネル隊に移してくれる、と言いました。パネル隊というのは、チアボーイと一緒に出てきて、音楽に合わせてパネルを動かして絵を作る部隊です。本当に救われました。同時に、高校生の先輩は年が離れていて体も大きく、声も低くて荒々しく、私達中学1年生にとっては威圧感のある存在でしたが、男の優しさ、温かさ、包容力を知りました。本番の体育祭の日、残ったほかの子達がみんなおそろいのカラーTシャツに、プリーツのついたミニスカートを履いて待機しているところを見ました。私が思い描いていたチアボーイの実際の格好はこれか、かわいいな、と思いました。
 
私は、今でも、スカートが嫌で涙を流したことを時々思い出します。男性は、男性から性的被害を受けた時、自分が暴力を受けたという事実も傷つきますけど、同じくらいか、あるいはそれ以上かもしれませんが、男なのに男から性的な目で見られた、自分は男としてダメなんだ、という傷つき方をするのだそうです。自分の男性としてのアイデンティティを傷つけられる、ということだと思います。あの涙と、私が怖いと感じた気持ちは同じだと思います。自分が男であることを傷つけられるアニムスの悲鳴。私は男らしさなんて鼻でせせら笑って、柔らかくしなやかであるように普段振る舞っています。一時は自分は本当は中身が女性なのではないかと疑いました。だから、アニムスの悲鳴を聞いて、思わぬことに驚いています。女装をしてみたい男性に女装をする権利があるように、女装したくない男性には女装しない権利があるはずです。本人が望まない女装は性的虐待といっても、もしかしたらいいのかもしれません。私は自分に虐待のようなことをしようとしてしまったのかもしれません。この思いを胸に、再度あからさまなレディース服に挑戦するか、レディースを買ったとしても派手さの少ない地味なブラウスなどに留めるべきか、よく考えを再度組み立て直してみたいと思います。