RJNKの日記

いろいろ興味のあることを書いています。

性別ということについて

最近、私がけっこう病んでいたのは、

1つには、この記事を

書かないといけないのもありました。

 

私も、奔放に書いているようですけど、

大胆に内面を書くのは、

そうとう精神的な負担になります。

 

この人は歪んでいるとか、いろいろ考えすぎて、

ちょっと変な方向に行っているとか、

思われると思って、

すごく病んでしまいました。

 

そんな時、橘亜季さんという方が、

女装をテーマにして、

コラムを書いていらっしゃいました。

 

私はそれを読んで、すごく共感できたし、

私が変なんじゃないんだ、少なくとも、

自分の私見を堂々と書くべきなんだ、って

勇気づけられました。

 
今日は前から話していた、女性原理主義という
私の考え方を説明したいと思います。
 
この考えはユングのアニマの理論に近いものですが
女性をベースにおいて考える、
という点において独特です。
 
私の考え方はLGBTQのT、またはQの方に
新しい視点を提供し、
自分の心の居場所を見つける手助けになるのでは
ないか、という思いがあります。
 
ですから、これを書こうと思います。
 
私がこの考えに至ったのは、
男性は子供っぽい人が多いのに対し、
女性は大人っぽいと言われていること
 
男性も一人称が私になっていくし、
なんとなく女性の方が精神的に成熟している印象を
持ったところから始まりました。
 
さらに、男性は成長の過程で女性的な要素を
身につけて成長していくのに対し、
女性は、それほど男性らしさに影響を受けている
ように見えない、ということにも気づきました。
 
もちろん、個別の女性が、尊敬できる男性から
生き方を学ぶことはあると思います。
 
私が言っているのは、そういうことではなく、
一般的に男性は女性性を獲得することによって
成長する、ということを言っています。
 
女性原理主義という考え方は、決して
女性が偉いとか、女性が男性より有利であるとか、
女性の方が正しいという考え方ではありません。
 
人間は女性と男性から成り立っているが、
ベースは女性性にある、という考え方です。
 
男性は男性だけのコミュニティにいる場合に比べて
女性と共存するコミュニティにいる方が
精神的な成長をするというのを
なんとなく感じています。
 
世の中において成熟していると感じる男性は
どこか女性的な奥ゆかしさや風格を身につけて
いるように私には思えるのです。
 
少し違う概念にはなりますが、私の中には、
男性とは、女性に似た存在であり、
また女性に回帰したがる存在である、という
感覚を持っています。このことを説明します。
 
男性と女性これらは両方とも人間ですが、
人間の中に雌雄の違いがある、というのが
普通の考えですが、
 
女性をベースにおく女性原理主義では、
女性と、女性に似て、一部に違う所がある
男性が存在する、というふうになります。
 
そして、女性と男性は違うものという側面と
似ているものという側面と表裏一体ですが、
私は似ているということを重視しています。
 
創世記という旧約聖書の文章があります。
創世記は世界の創造や罪など、人間のあり方を
象徴的に表した文章が多いような気がします。
 
その創世記において、
女性は男性の肋骨から作られます。
 
女性を見た男性のアダムは、
これぞ私の骨の骨、肉の肉と言って喜びます。
 
創世記において、男性と女性は違うというより
似た存在、パートナーという側面が
より強調されているように私には思えます。
 
創世記では女性が男性に似ている、
という考え方を取っています。
 
私は逆で、男性が女性に似ているのだと考える方が
私の感覚の中では、すっきりします。
 
今の教会では人間は神の似姿であると考えます。
ですから男性も女性も神の似姿というわけです。
 
それはバランスのとれた考え方ではあると思います。
ですが、私の感覚の中で
あくまで女性がベースであるのです。
 
そういう意味での女性原理主義者にとっては
男性が女性に似ているということは極めて重要です。
 
どういうことかと言うと、
私の中には、私は男性ですけど
長い手がついていて、しなやかな足がついていて、
髪の毛の生えている頭を持ち、物を喋る口を持ち、
キラキラ輝くガラスのような瞳を持ち、
女性と同じように物を食べ言葉を話す存在である、
 
そういう存在に私を創造された神様に対し
心から感謝する気持ちがあります。
そういう考え方なんです。
 
一方で、世の中は男性と女性から成り立っています。
これらは非常にうまくできていると思います。
 
世の中の半分は男性であり半分は女性であり、
私はこのよくできた女性と男性の存在を愛し、
その状況を楽しむことがより自然で
楽しい生き方であると感じます。
 
私は、割と小さい時から、
自分の志向は女かもしれない、と感じていたし、
成長期には、このまま大人の男性になりたくない、
なんとか女性に変わる方法はないかな、
と思っていたし、
 
30歳を前にして、プエラリアミリフィカの
効き目を楽しみにしていた頃は、
自分は女性になりたいのかも、という
思いもあったし、でも女性になる、
ってのも、なんか違うのかな…?
 
という思いもありました。
 
しかし、スーツは、男って世界に
閉じこめられているようで、
とても抵抗がありました。
 
自分は、なんなのかな、と思っていらっしゃる方は
けっこういらっしゃると思いますので、
私の考えを読んでみて、当てはまるか、
考えてみてください。
 
私は、さっきの考え方で、
世の中は、半分が女性で、半分が男性で、
うまくハーモニーができていると考えていて、
そういう存在としての男性であることには
満足しています。
 
同時に、男性が女性に似た存在であるということに
強いプライドを持っています。
 
普段は、プライドという言葉とは
かけ離れた人間だけど、
女性に似ているということには
強いこだわりとプライドがあります。
肌の白さとか、しなやかで白い手足などです。
 
女装をする人は、より女性に近づきたいという
考えを持っていると思います。
 
女装者といっても、動機は実に様々なのですが、
すべて男性性からの解放につながります。
 
特に、40歳以上の女装者は、
人生の最初から、あるいはある段階から、
男性であることで社会的な役割を押しつけられ、
心を消耗させてきましたが、そのことに反発し、
男性と女性の間の垣根を壊したい、
という動機の方が多いようです。
 
冒頭に書いた橘亜季さんのコラムは、
そのことを実にうまく表現してますし、
 
私も女装でなくても、精神的な面で、
女性と男性の本来の性差ではない、
望まずして存在している社会的な掟や、
それによって生じる男女間の分断を
なくしていきたいと考えているので、
すごくわかるし、応援させてもらいたいです。
 
そのほか、女装までしなくても女性と離れることを
嫌がっている男性は潜在的なところでは
多いんだろう、と私は考えています。
 
例えばホリエモンはスーツを着ても
クタイをすることを嫌がっていました。
 
私もネクタイを締めることに
抵抗がある時期がありましたが、
その感情を分析してみる
 
もし女性が男性と同じようにネクタイを締める
世の中であれば、私はネクタイを締めることに
拒絶感は出なかったのだと思います。
 
は、社会的性差というものを極力否定しています。
そういうのは一種の性差別のような
概念を含むと、私は感じています。
それは女性原理主義に反するものです。
 
何度も書きますけど、女性原理主義という発想は、
女性が男性より偉いとか、正しいとか
いうものではありません。
 
実際の生活においては、女性でも男性でも
尊敬できる人と、そうではない人がいます。
男女平等で、現実世界の人間の価値とは
女性原理は関係がありません。
 
しかし、それでも女性原理主義という考え方に
違和感がある方もいらっしゃるかもしれません。
 
そういう方は、単純に同じ人間なのに、
女性というだけで、男性というだけで、
生きづらくなるのはおかしい、
人を不幸にする掟にはプロテストしよう、
という発想でもいいかと思います。
 
また、私が女性原理主義のような思想を深めたのは、
私が最近、初めて女性に対して
恋愛感情を抱いたのがきっかけで、
 
そうなって初めて、自分が無意識のうちに、
男女間に壁を作っていたことに気づいたのです。
 
女性を知ることによって、
自分の男性という服が完全に取り払われて、
女性と同じ素肌を持っていることに気づいたのです。
 
ところが、世の中の人が、
異性間の恋愛で変わるかというと、
どうも、そうでない人も多いようです。
 
それどころか、
男性だからうまくエスコートしないといけないとか、
女性だから自分から行けないとか、
ガチガチに性別に凝り固まった発想があるようです。
 
私としては不思議です。
好きな異性の前でも
性別の服を脱げないのでしょうか。
裸になって素直な自分になることが
できないのでしょうか??
 
私は自分の考え方が正しいのか考えた時に、
必ずしもそうではないかもしれないけど、
 
男性に恋人の男性に女装させて喜ぶ
女性がいると聞いた時に、
私の考えは一定の普遍性があると思いました。
 
しかし誰の心にもあるかと言うと、
そこまでではないかもしれません。
例えば男性になりたい女性がいることを考えると
そういう人には女性原理主義
てはまらないでしょう。
 
また、私は女性に恋をして、
この考えに行き着いた訳ですが、
女性の中には男性と結婚して、
自分の一部のように夫を愛している方も
いらっしゃいますし、
 
恋愛体質で、男性と恋人関係になって、
一緒にいる時しか自分という女の幸せを
見いだすことができない、という人もいます。
そういうパターンもあります。
 
社会的性差ではなく、肉体的性差があって、
LGBT以外の人は、男女の間で愛しあい、
惹かれあい、子孫を残していく訳ですから、
そういうこともあるでしょうね。
 
私は後でユングのアニマあるいは
アニムスという考え方を知りました。
この考え方はよく出来ているように思います。
 
女性原理主義の思想は、世の中は男性のほうが
女性に学ぶことが多い、という私のイメージと、
女性に殻を取り払って接した結果、
男性である自分に見えた世界観が
一緒になっているのかもしれません。
 
私は、女性に対して、男性がすべての意味で
つまらない固定観念を取り去って接するのに、
 
女性原理主義の思想が、
自分の中ではしっくりくるし、
自分と世界の関係、女性との関係、
男性との関係を、うまく構築できるのです。
 
自分が行き着いた性別感情だから、
当然かもしれませんが…。
 
私はそのように考えるようになってから、
すごく気持ちが自然な感じがするし、
すっきりとして、1人の男性として、
おいしい空気を吸いながら
納得して生きることができます。
 
そうです、逆説的ですが、世の中に現に存在している、
全く人間が勝手に作り上げた、余計な性別概念、
 
意味なく女性を呪縛しているもの、
意味なく男性を呪縛しているもの、
意味なく男女を隔てているもの、
 
そういうのを自分の中で叩き壊しまくって、
やっと自分が男性であることに
違和感をあまり感じなくなりました。
 
性同一障害と思う前に、
私の考え方で自分は納得するのか、
一度かんがみていただけると幸いです。
 
そして、橘亜季さんみたいな人もいるし、
私もこう書いているし、共感できる方は、
自分が薄々思っていることは
全然間違っていないんだ、同じ考えの人がいる、
と思っていただけるなら、
 
社会が歴史の中で決めた、全く不要な、
人間の心を不自然な方向に縛っているだけの
性差別的な掟、
男女間の無駄というか悪でしかない壁、
 
こういうものは、一緒に声をあげて、
やっつけていきましょう、
壊していきましょう!
 
お待ちしています。